Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
ブーゲンビル

ブーゲンビル島は弧状につならるソロモン諸島の北西に位置し、長さ約190キロの島を縦断するように、険しい山脈が続いている。太平洋戦争が始まった時点における現地住民の人口は約5万人で、主に島の南部の平地部に住んでいた。

ラバウルを本拠地とした日本軍にとって、ブーゲンビルはソロモン諸島南東部や、ツラギやガダルカナルでの作戦の中継基地として重要だった。この基地の最終目的は、アメリカからオーストラリアへの連合軍補給ルートを遮断するために実施される予定だったニュー・ヘブリデス島やフィージーでの作戦を支援するものだった。結果として、軽巡洋艦「天竜」を含む第6および第8巡洋艦隊が194238日にブカ島のクィーンカロラ湾に入った。この地域は19423月下旬から4月上旬にかけて日本軍によって攻略されたが,その際、1941年に守備のため派遣されたオーストラリア軍第1独立連隊による抵抗はほとんどなかった。

百武(ひゃくたけ)中将に率いられた第17軍は,海軍設営隊や守備隊と協力し、直ちに飛行場を建設し、4ヶ所に兵力を集中させた。それらは北部のブカ,東海岸のキエタ,西海岸のマワラカ,そして南部のブインおよびファイシ(ショートランド島)付近である。194310月の時点では、陸軍約46千人と海軍約2万人がブーゲンビル島に駐留していた。さらに、長期戦に備えて、十分な補給物資と弾薬が準備されていた。

連合軍の南西太平洋地域における反撃は、1943年にしだいに勢いを増していった。ブーゲンビル島を含むソロモン諸島の奪回は、連合軍にとってニューギニア、ニューブリテン,そしてさらにラバウルへの上陸作戦の前哨戦とみなされていた。19438月までに、ラバウルを飛びこし、島伝いに進むことが決定されており、そうすることによって、多くの犠牲者をだすであろう直接攻撃を避け、日本軍の戦力を孤立させる方向性が定められていた。ブーゲンビル島にいた百武司令官は、連合軍によるブーゲンビル反撃が、1943年末までに開始されるだろうと予測していたものの、それが島の西海岸で敢行されるとは予期していなかった。111日、ヴァンダーグリフト将軍は、第3アメリカ海兵師団を率いて、エンプレス・オーガスタ湾沿いの海岸北部にあったトロキナの海岸堡を確保した。

百武中将は、当初トロキナへ強力な反撃勢力を派遣することに対しては積極的ではなかった。なぜならば、連合軍による本格的な上陸はまだ先のことで、おそらく東海岸に上陸するであろうと考えていたからである。さらに、アメリカ軍の艦載機による攻撃を受け、多大な損害をこうむった日本軍の航空機のほとんどがトラック島へ送られたことで、ヴァンダーグリフトは海岸堡の周辺部の大部分を確保することができた。12月には、飛行場が完成し、そこから飛び立ったアメリカ軍とニュージーランド軍の戦闘機はラバウル攻撃ができるようになった。

一方、グリスウォルド少将指揮下の第37およびアメリカル師団が、トロキナ周辺の守備をするために到着した。百武中将は神田少将指揮下の第6師団と第38独立混成旅団とともに、1944年3月9日ようやく反撃を開始した。日本軍は初期の戦闘では戦果をあげたものの、疲労と病気が作戦初期から問題を引き起こし、アメリカ軍の戦車隊、砲兵隊そして航空部隊に歯が立たなかった。約9000人の死傷者を出した上、それ以上の数をマラリアと赤痢で退却中に失ったため、神田少将は3月26日までに完全撤退を命じ、それ以後は、双方ともそれぞれの占領地域を確保するための巡回によって、監視下の平和を保つことで満足していた。

マッカーサーがフィリピンをなんとしても奪回しようと決意していたため、194410月にソロモン諸島とオーストラリア領ニューギニア全地域での指揮権および責任は、スターディー中将が指揮するオーストラリア第1軍に移された。トロキナに置かれていたアメリカ軍部隊は、サヴィジ中将を司令官とし5個の歩兵旅団によって構成されたオーストラリア軍第2兵団と交代した。ニュージーランド空軍第1飛行連隊とオーストラリア空軍第84航空団が、オーストラリア軍に対する航空援護を行った。連合軍に制海権を握られた結果、19442月以降日本軍によるブーゲンビル島に残った日本兵への補給ができなくなった。そのため、日本軍の3分の1が畑で農作業に従事する必要があり、さらに3分の1は病気になってしまった。

サヴィジ司令官指揮下のオーストラリア軍は、アメリカ軍によって確保された境界線を守るだけでは満足せず、ブーゲンビル島の日本軍を壊滅させるために乗り出した。194411月下旬には、トロキナの北方部の山岳部を縦断するヌマヌマ道を通ってオーストラリア軍第7旅団の部隊が出発した。金子大佐に指揮された陸軍第81連隊の一部は、この道の顕著な地形的目印であるタロキナ峠(オーストラリア名、パール・リッジ)から19451月上旬に後退した。さらにその後数ヶ月にわたって、タロキナ峠を基点として、オーストラリア軍は東海岸の日本軍の南北の補給線を混乱させ妨害するために斥候を送った。

島南部のブインに集結していた日本軍主要部隊への第一次攻撃のため、12月中旬、モナハン旅団長に率いられたオーストラリア軍第29旅団は、トロキナの南のジャバ川を渡った。当初、日本軍第13歩兵連隊は、南に向かって進むオーストラリア軍に対して、限られた範囲の奇襲攻撃をかけた。2月に病で倒れた百武司令官の後任として、第17軍の指揮をとっていた神田司令官は、オーストラリア軍に対して一斉攻撃をかける計画を持っていた。その目的は、プリアカ川(オーストラリア名、Puriata River)の南に位置し、トロキナとブインの中間地点にあった豪州台(オーストラリア名、Slater‘s Knoll)において、当初配置されていたオーストラリア軍第29旅団と交代した第7旅団の侵攻を遅らせるためであった。4月上旬までに、日本軍第13および23連隊による豪州台付近での反撃は失敗に終わり、死亡や負傷者は1600名を越えた。その後、規模は縮小されたとはいえ日本軍の絶え間のない抵抗下、オーストラリア軍第15旅団の2個大隊が次第に南に進んだ。

島北部では、サヴィッジ司令官はボニス半島とブカ島の日本軍を壊滅させるという最終目的のために、第11旅団所属の1個大隊に対して、海岸線沿いに進むようにと命令した。スン高地(オーストラリア名、Tsimba Ridge)に堅固な陣地を構築していた日本軍独立混成第38旅団所属部隊の攻撃を受け、オーストラリア軍は大きな損害をこうむった。

神田司令官の指揮する日本軍は、1945年中期には、南部のブインと、北部のボニス半島とブカ島周辺部の2ヶ所に追い詰められ、身動きが取れなくなっていた。オーストラリア軍はさらにこの2ヶ所に攻撃を仕掛け、それに対して、日本軍は抵抗を続けた。しばしば、分散して配備されていたオーストラリア軍の間を縫って、後方の通信および補給線を混乱させるために、斥候部隊を送り込んだ。

ブーゲンビル島においてのオーストラリア軍の戦略は、兵力の点では予想以上だったものの、すでに孤立していた日本軍を破壊するという目的を持っていた。この方針に対して、戦争中も戦後も厳しい批判がなされた。ブレーミー将軍は、攻撃的な斥候を送ることで、オーストラリア軍の士気の喪失を防ぎ、最終的には現地住民を解放し、軍の規模を縮小し、兵の投入をを軽減する効果的な方法であると弁護をした。結果的には、オーストラリア軍側は194411月以降の期間で516名が戦死あるいは行方不明になった一方、日本軍側は陸軍が3万人、海軍が12千人の死亡という損害となったのである。

スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)


Printed on 05/19/2024 08:15:48 AM